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もう疲れたんだ。そう言って伝七は僕の肩に顔を埋めた。十五秒、三十秒が経ってもまだ僕には何が起きたのか分からず、全てが夢のように思えた。

「疲れた。なあ兵太夫、僕はへとへとだろ? 限界なんだよ」

ごめん、と僕は言ったけれど、それは全く誰の耳にも届かなかった。

よく手入れされた伝七の赤い髪が頬に触れている。伝七の重みが僕に寄り掛かっている。そんな些細な知覚の集積がやがて僕を死に至らしめるだろうという確信が胸を焼いた。饐えたような微かな酒の匂いが鼻をついた。

例えば彼が部屋の扉を開けた時の自分のいつもの顔が想像できる。僕と伝七は六年間同じ委員会に所属していて、時間が合うと僕の部屋へやって来て一緒にお酒を飲んだりするのが習慣になっている。学園長先生経由の依頼で簡単なからくりを制作する予定があった僕は、夜には伝七がやってくるであろうことを知っていた。

お前はずっと疑っている。お前が来るのを待ちわびて待ち焦がれて山積みのくだらない依頼に景気良く応じる僕を、お前は疑っている。

「僕たちもう長いよな。会った時は十歳で、一年生で、一緒に委員会やって。これから卒業してお前は実家に戻って、僕はプロの忍者になって、兵太夫。それでこれからも僕たちは上手くやっていくんだろ」

通り過ぎていくだけの言葉の羅列は滑稽なまでに空しく響いた。これまでのやり方が行き詰まったことは今こいつ自身が証明している。嘘は、人を磨耗する。誠意のない行いが力を奪っていく。

「十年も、二十年も、周りにどんどん人間が増えていって、仮に会わなくなっても、僕たちは、僕はお前とは、やっていける奴だと」

触れあっている僅かな面積はじわじわと熱を貯えた。そこが歪んでいくように思えた。僕は、否定されたかった。それを避けてきたくせにそのほうがましだと身勝手に思った。

伝七の体はくたびれていて熱かった。僕は何度か、何度も、この体に腕を回してきつく抱き締めるところを想像したはずだった。何気なく触れた一瞬に移る体温を好ましく思ったし、間近で嗅ぐ酒に侵された体臭にも愛着を感じていた。それが今ここにあって、僕が少し腕を持ち上げればそれをまるごと手に入れられる。刹那でも錯覚でも僕だけのものにできる。

しかし突き放されるために引き寄せるような潔さはどこを探しても出てこない。僕は臆病な男なのだ、卑怯なのだ、恐らくはじめから終わりまでそういう男であり続けるのだ。

「やっていけるさ。僕たちは、伝七、戦友じゃないか」

僕は伝七の背中を叩いた。宥めるように名前を呼んだ。

「そんなのは聞きたくない」

「参ったなー、ちょっと飲ませ過ぎた?」

「はっきり言ってくれ」

伝七は僕を見なかった。もう見るのも辛いほどの猜疑の心を、こいつに抱かせたのは僕だった。見え透いた嘘を吐き続けそれに延々付き合わせてきた。知らないふりをさせ続けた。お前が涼しい顔で目を瞑っていてくれることに甘えた。

「僕は本当に‥‥お前とずっと、ともだちで‥‥」

ーーいたいんだ。

体から伝七の重みが消えた。ぼんやりする視界の中に床の上でうずくまる彼を発見した。本当に飲み過ぎていたんだなあと思った。早く助け起こして、部屋まで送らなければいけないと思った。だけどこれは策略で、もしかしたら今も正気なのかも知れない。酔い潰れたふりをして聞いていないふりをして僕に言わせようとしているのかも知れない。

そう考えるとどうしても「好きだ」とは言えなかった。明日になればまた彼はいつもの顔で机に向かっている。その希望にどうしようもなく縋った。